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[Roman Album]。


いよいよ、今週10日「roman album」発売です。

昨日はFMおだわら「象の小規模なラジオ」、でグレスミ特集

して頂き、アルバムから数曲オンエアされました。

ありがたい、と思いつつ、

そして先行youtubeのPVで「泣き虫モンスター」を公開し、

好評頂き、それも嬉し、と思いつつ、、

微妙に複雑な思いがあるのも事実でございまして、

(他のメンバーにあるかどうかは確認してませんが)

いや、それほど大げさな話でもないのですが、

なんというか、「音楽アルバムフォーマット」へのこだわり、

とでも申しましょうか、ちょっと説明いたします。

通称ホワイトアルバム「THE BEATLES」というアルバムが

ございます、。

ビートルズの諸アルバムの中でも一番聞き倒しているアルバムでして

その曲順、ある曲の後に別の曲が狭間なく繋がる雰囲気、

すべてがヒトカタマリになって記憶され、すべての個が全体であるようで

全体が個であるような、海底でゆれるサンゴ礁のように、

おそらくビートルズ自身がそういうコンセプトを立てたのでしょう、

個が全である全が個であるようなアルバム、を、と。

で一方、これはおそらく誰もが知っている彼らの曲で「ヘイ・ジュード」、

実はこの曲もほぼ同時期のセッションで生まれている曲でして、

ただ、ヘイジュードはシングルのみの販売、上記のホワイトアルバムには

入っておりません。どころかホワイトアルバムからはシングル曲は少なくとも

ビートルズ自身の意思ではきっておりません。

つまりバンド史上最大のヒットの可能性を持つ曲と

アルバムが並列に扱われている存在であり、

また相容れないコンセプトが明確にあった、という意思で。

これはビートルズ時代は普遍的な状況にほぼありまして(後期やや崩れますが)

シングル単位で聞かれる曲とアルバム単位のコンセプトは別である、

ゆえにそこに商品価値が生まれようと前提の音楽的枠組みを重視する、と。

この意思に忠実だったメンバーはおそらくポールだと思うのですが

(彼のみが解散後も数年間、この概念をソロワークでも踏襲いたします)、

そしてその意思が当時の音楽的商業的要請から生まれた枠組みであったのも

分かりつつ(シングル単位でラジオなどでオンエア、それが音楽商業的に

中心であった時代ですね。アルバムは彼ら以前はそのシングルをまとめて

聞くメディア、シングルに従属するメディアであった時代です)

そのシングルとアルバムの対概念にこだわったビートルズ、

そしてその概念にすっかり魅了されている自分にとって

(ホワイトアルバムはホワイトアルバムであり、ヘイジュードは

ヘイジュードであり独立した存在であるという認識)

アルバムを作るという状況ではやはり前提として(まあ、妄想に近いですが)

「アルバムを全体として作る」意志が反映されているものであります。

今回、グレスミではPVを作ることになり、ありがたいと思いつつ、

「泣き虫モンスター」がPC上で何度も聞くことが出来て、

ラジオで数曲オンエアされ、アルバムの全体像が伝わる前に

アルバムのイメージが各自リスナーに出来上がることの違和感が

どうしても拭いきれずにおります。

ネガティブな印象というより違和感と言いますか、。

「ヘイジュード」1曲目に入っているホワイトアルバムが強烈に違和感が

あると同じ違和感を覚えます。

そこまでコントロール出来る商業的な成功や背景も自分たちには

存在しない前提です(それが出来るアーティストの商業的成功という

前提があっての概念ですので)が、

「シングルとアルバムは別だ」

という時代遅れの概念にも

「ロマン」があったことを今回初めて違和感とともに

実感しております。

「泣き虫モンスター」は「roman album」にとっての泣き虫モンスターで

あり、それは次の曲に繋がる曲でもあり最後の曲を聴いた後に戻る1曲目であり

個でありつつ全体であるような流れを意識して他の曲と作り配置した意思が

本来的な意思であること、当然、音楽をどう消費されようが聴かれようが

それはすべてリスナー自身に委ねられている、それは当然ですが、

「roman album」というタイトルに込めた概念には

実はそういうpopsアルバム、曲単位とは別の全体の概念としてのアルバムという

背景が多少でもある、と一応、発売前に書いておこう、と。

Pvでラジオでアルバムを聞いてみよう、と思い立つ皆さまに

感謝いたします。が、その1曲の存在がアルバム全体の違和感に

ならなければいいな、と、。

「泣き虫モンスター」的な曲は他にありません。

それはアルバムの中の曲であるがゆえの設定でございます、

それぞれの曲の役割と個の設定があるがゆえの楽曲制作、

それが出来た、何も言わずに全員がその意思を共有出来た、

という意味でもグレンスミスは(年齢を超えて)手ごたえがある

バンドになっていると思います。

是非、アルバム発売後は聞き込んでいただき全体の中で好みの流れなどを

それぞれに作って頂けたらそれ以上の幸福は作り手としてありません。

まあ、古い概念ではありますが、配信単位での販売ではない時点で

ブックレットの歌詞を読み込むことの楽しさも併せ持ったアルバムでもある

前提ですので、時代遅れでもそんな楽しみ方もあるという

押し付けではなく、紹介となれば、と、、。

では。11月10日に

グレンスミス…そのイキサツ①。


宮崎です。

グレンスミス、初対面に近いメンバーが集まり、

アルバムを作り始めたのが昨年10月。

おそらく4名がそれぞれに違う背景と思惑があると思いますが

宮崎側から見た今回のアルバム完成までの

経緯を書いてみようと思います。

「何かが生まれるとき、始まるときにどういう背景があるのか?」

いくつかの段階を追って気軽に書いてみます。

1.「音楽家は他人の音楽に嫉妬するときにどう振舞うのか?。」

detune.の音に初めて触れたのはAMラジオのオンエアでした。

彼らのレーベルオーナーでもある佐々木敦氏(HEADZ)が

当時もっていたラジオ番組コーナー内でdetuneの曲をオンエアした時で。

運転中にその曲(ムシバメルモノ、です)を聞いたのですが、

「こりゃまずい」と思った記憶があります。

まず、その楽曲と演奏の質(当然ヴォーカル含む)、

それも自分に近い(と思った)音楽の方向性に

かなりショックを受けました。

その音楽に内在化された「楽曲と音楽性の方向」が似ていて

なおかつ高いクオリティであるという「発見」。

そういう状況に出会うときに音楽家はどう振舞うのか?

各自それぞれとは思いますが、自分の場合は

「なんとかして知り合ってみよう」と思うタイプでして、

(敵視する、スルーする、諦める、奮起する、色々な選択肢が

あると思います。以前にも似たような経験がありました。)

是非、いずれ機会があらば「どこかで会ってみたいな」と、。

これがdetune.と実際に知り合うおよそ2年前、07年の出来事です。

機会があれば、と車を運転中にそれを自分が思ったとして

そのラジオから流れる音楽家との距離を思うと、

それがいつのなるのか?、と普通は考えると思います、

ただ、そこに(一つの接点)があるのをすぐに知ることになります。

detune.のアルバム、そのジャケットイラストを描いている

漫画家・西島大介氏の存在です。

宮崎も10年ほど前から西島氏と(主に漫画やSF方面関係で)

知り合っておりまして、小規模ながらアニメ制作という立場で

彼とは仕事をした経験があったのです。

ゆえに、いつかのチャンス、それはおそらく

「西島君を介して紹介してもらうことになるであろう」と。

共通する友人が他にいないことも年齢も違うことは分かっておりましたが、

西島大介氏が「対象に対して厳しく批評的である人」

のは了解していたので、だからゆえに

「西島君の紹介があればおそらくそれなりにこちらも信用はされるであろう」

と、つまり西島氏の批評性を担保にした信頼を

宮崎がdetune.に対して一方的に持っていた、と、、

はは、気味が悪い話ですね。

で、話は2年後になります、。

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順次公開(予定)。
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